アナバナでお手伝いをしている福岡市農山漁村地域活性のプロジェクト「海、山、未来が近いまち、福岡。LOCAL BUSINESS X FUKUOKA」。トークイベント2回目のゲストにおいでいただいたHAGI SUTUDIO代表の宮崎晃吉さんにお話を伺いました。トークイベントのレポートと合わせてご覧ください。
東京下町の谷中にある最少文化複合施設『 HAGISO 』の設計・プロデュース・運営を手がける。2015年3月にオープンさせた宿泊施設『 hanare 』は、HAGISOを含めたまち全体を1つの大きなホテルと見立て、「まちに住むように滞在する」ことを提案。
理系から一転、高校三年で東京芸大志望に。
─建築士を志したのはいつ頃ですか?
僕は群馬県の進学校に通っていたのですが、徐々に勉強についていけなくなって、劣等感を払拭する意味も込めて、普通の進学の順位に左右されない東京藝術大学の道を選択したんです。「これなら東大に行く連中にも負い目を感じないだろう」と。理系だったのと、絵は昔から好きだったので、「数学+絵=建築だ!」っていう感じで、代々木ゼミナールの造形学校に通い出して、水彩画の勉強などをしました。1メートルの模型を造ったりもしました。様々な価値観の人が来ていて、刺激を受けましたね。
そして一浪して東京芸大に合格し、しばらくは環境を変えてみたくて、東京の色々な場所に住んでみました。あるとき、仲間が下宿していたのが“萩荘”だったんです。老朽化していた家屋を、空き家にするぐらいなら未来ある若者に安い賃料で貸してあげようという大家さんの心遣いでした。すぐに気に入ってしまい、僕もその一員になりました。
学生時代にはいつも色んな人が出入りする、文字通り自由な下宿でした。あまりにも居心地が良すぎて、社会人になったあとも僕は萩荘に住んでいました。
─就職先は、どちらだったのでしょうか?
磯崎新アトリエです。主に海外の公共事業の仕事をしていました。たくさんの大きな仕事をさせてもらってきたんですけど、なんだか自分にとって“遠いものだな”って思うようになって。海外だし、基本的に公共事業なので、政治家の実績のためでしかないので、直接かかわりがないなぁと思っていました。
─その後、独立されていますね。
とりあえず退職した、という感じです。3.11の震災から1ヶ月も経っていなかったと思います。次の展望なんてなかったです。
─3.11って、関東に住んでいる人には文字通り衣食住の価値観が変わるできごとだったのだなと色んな方のお話を聞いていて思うのですが。
そうですね。僕はとりあえず足元を見るしかないと思い、できることをしようと思って仙台に震災ボランティアに行きました。大学生なんかに交じって、避難所への物資運搬の作業をしました。ただ、ここでもまた、会社員時代に「誰のためにやっているのかわからない」と感じていたことと同じような想いにぶつかりました。
指示されたものを避難所に運ぶというボランティアだったんですけど、せっかく持っていったのに、その物資はその避難所にはもうたくさんあって必要ないということが重なって、「何のためにやっているのかわからないな」と感じて帰ってきました。
萩荘解体の知らせを受けて、“建物のお葬式”を提案。
─そして、戻って、萩荘の解体のお話になるんですね。
もう、次の地震には耐えられないと言われました。これ、実は萩荘のある谷中の周辺でも複数起きていた事態なんですけど、僕はこれを“建物の突然死だ”と思いました。銭湯など、古くて魅力的なものがあっさりなくなってしまうこの現象を前に、お世話になった萩荘の“建物のお葬式”をしたいと思ったんです。
─オーナーさんは、すぐに快諾してくださったのですか?
もともと僕たちのようなよくわからないものを造っている学生を受け入れてくれていたオーナーでしたし、本職がお寺さんということもあって、「お葬式をしたい」という言葉を理解してもらえました。
そこから準備を始めて、解体される2012年春の直前に『ハギエンナーレ』という形で萩荘の空間そのものを使った作品、この空間にインスピレーションを受けて製作された作品などを展示しました。
─想定外の来場者数だったそうですね。
はい、3週間で1500人も来てくださいました。なかには通りがかりのおじさんとか、それまでこの建物のことを「あやしい」と思っていた近所の人などもいらっしゃったようです。
─その数字とコンテンツのクオリティを見て、オーナーさんが現在の「HAGISO」に至る構想を許可してくれた、ということでしょうか。
実はイベント中からうっすらそう感じてはいたんですけど、オーナーも楽しいことが好きな方でして。僕は想いを連続させる中で、気付いたら萩荘をHAGISOにするための建築士としての作業と、HAGISOとして経営していくための事業者としての両方の仕事をするようになっていたんです。
“5年完済計画”のスタートから、いま
─オーナーさんと宮崎さんとで資金を出し合い、5年かけて完済する計画で、「HAGISO」をスタートされたそうですね。今は順調に進んでいますか?
「HAGISO」は最小文化複合施設です。カフェとギャラリーとレンタルスペース、そして僕の設計事務所という構成で2013年3月にスタートしました。いま、3年と半年ほどが経ったところですが、カフェ利用が年間3万人、ギャラリーのお客様を入れると、だいたい年間3万5000人くらいの集客でして、順調だと思います。でも、次のホテル事業のために借り入れしていますからね。事業主って、借金の連続ですよね。
─事業を始めて、苦労されたことはありましたか?
実は、最初の半年は結構苦労しました。完全に、客層を読み違えていたんです。僕が一方的に描いていたカフェ像と、実際のニーズが違ったんですね。そのことに気づいて、月イチ更新のフリーペーパーを作り始めたんです。ギャラリー目的で来られたお客様に、「ここはカフェもあるんだ」と知ってもらえるし、カフェ利用のお客様にも「あ、来月のこのイベント、来てみよう」と思ってもらえる。この方法で、徐々に今の数字になっていきました。
ちなみに、メニュー内のイラストも、僕が描いているんです。カフェメニューの断面図とか描いてて。ちょっと変わってるでしょう。
─本当!イラスト自体はかわいいのに、立体的に構造がわかるように描かれていて、視点が男性ですね。でもこのバランスがいいのかもしれませんね。やはり、現在は「HAGISO」のようなリノベーションのご相談案件が多いのでしょうか?
それがですね、個人住宅がほとんどでして、ホテルのリノベーションなどのお仕事もたまに頂きますが、あまり「HAGISOみたいにしたい!」といったご相談はないですね。
経営プラスアルファの建築
─宮崎さんの経営される「HAGI STUDIO」ならではの建築プランとはどういったものですか?
僕は建築士であると同時に経営者でもあるので、経営者の視点を考慮した建築プランのご提案をするように心がけています。いま、半年に一度、北九州で講師をさせて頂いている「リノベーションスクール」がまさにそういった内容になります。実際に何かしら課題のある建築物や土地があって、その事業提案を3日かけてプランにして、オーナーさんにプレゼンします。正直3日で考えられることには限界があるので、なかなか実案件にはなりにくいのですが、経営者の視点の大切さもお伝えしながら講師をしています。
─「HAGISO」はそのバランスがとれているから順調なのでしょうね。ちなみに今、スタッフは何名ですか?
20名ですね。そのうち、フルタイムは6名。いまのカフェの店長は、HAGI CAFÉの店長になりたい!と志願してくれた二代目でして、休みの日に遠方まででかけて食材を見つけてきては、自分たちでメニューを考えて楽しいことを生み出してくれています。
─20名のスタッフを抱える宮崎さんの、今後の展望を教えてください。
僕は経営者になろうと思ってなったというより、目の前にあるものをやりたいと思ってやってきたら今の形になっていた、という感じですので、常に個別の出逢いの大切さを感じています。中には失敗もありますが、そうしたトライ&エラーを繰り返しながらここまでやってきたので、今後もそうやって進んでいくと思います。
学生時代から変わっていないことの一つですが、遠くの目標を設定するのは苦手なんです。受験生のときも、「東京芸大に入る」という目標に向かって頑張った。その次に、建築士という目標ができた、という風に。最近思うのは、「大きなビジョンを持たないこともいいんじゃないかな」と。
─目の前にあるもの、いるスタッフとともに、ということでしょうか。
地続きのものにしかリアリティを感じられないので、飛び越えずに、少しずつ拡げていくことで連続していき、遠いものではなくなる、ということだと考えています。
─そうした連続の中で、九州・福岡でも何か今後お仕事になりそうでしょうか?
先述のリノベーションスクールで北九州を訪れるたびに色々なところを回っていますが、若松がJazzの発祥地だったりと、まだまだ知らないことがたくさんですね。ほかにも、間もなく佐賀の有田に呼ばれています。訪れたことのある土地で印象深いのは、別府でしょうか。鉄筋コンクリートの家並みはとても独特で、いい街だと思います。
こうやって講師やイベント登壇などで呼んで頂いて、そこで知り合った人と、「仕事」になるもっと手前のコミュニケーションが発生して、その連続の中から、仕事が発生する。これからもそうやって事業展開をしていけたらいいなと思っています。
■HAGISO
〒110-0001
東京都台東区谷中3-10-25 HAGISO
☎03-5832-9808
http://hagiso.jp
(取材/後藤暢子)