2016年10月31日、福岡市中央区の「スタートアップカフェ」に70名を超える参加者が集い、「福岡市農山漁村地域活性化セミナーvol.2」を開催しました。6月に運用を開始した「市街化調整区域の土地利用規制の緩和」をきっかけに、地域資源を活かした宿泊施設の可能性について学ぶ今回のセミナー。第3回目となる今回は、東京と新潟で「宿」を運営する2人のゲストを迎え、新しい宿のあり方と地域との関わりについて トークを展開しました。
地域資源を活かした新しい「宿」のカタチとは。情報があふれる現代において,リアルメディアとしての「宿」の役割や情報との向き合い方。「宿」を中心としたまち全体のプロデュース。福岡市の市街化調整区域における宿の可能性とは。
「宿」をテーマに,地域活性化という枠を超えた,そんな白熱した議論の様子をお届けします。
岩佐十良 Toru Iwasa
(株)自遊人 代表取締役・クリエイティブディレクター
雑誌編集長でありながら農業を行うクリエイティブディレクター。2014年5月、新潟・南魚沼に古民家を改装してオープンした旅館「里山十帖」は農作業や地産地消料理などを体感できるライフスタイル提案型の複合施設。
宮崎晃吉 Mitsuyoshi Miyazaki
HAGI STUDIO代表
東京下町の谷中にある最小文化複合施設HAGISOの設計・プロデュース・運営を手がける。2015年3月にオープンさせた宿泊施設hanareは、HAGISOを含めたまち全体を1つの大きなホテルと見立て、「まちに住むように滞在する」ことを提案。
山口覚 Satoru Yamaguchi
津屋崎ブランチ代表
1969年、北九州市生まれ。創造的活動交流拠点津屋崎ブランチ代表。2005年、自ら地方に身を置いて活動しようと福岡へUターン。2009年には福津市津屋崎の小さな海沿いの集落に移住し、「津屋崎ブランチ」を立ち上げ。空き家の再生・活用、対話による町づくり・小さな起業家育成などを行い、6年で200名以上の移住者を招き入れ、20人の起業家を生んだ。現在も、地元の人達と地域の未来をつくる取り組みを続けている。
セミナー冒頭、福岡市総務企画局糸山より市街化調整区域の現状と、それにともなう課題解決の方法としての「土地利用規制の緩和」についての説明を行いました。現在150万人の人口を抱える福岡市ですが、一方で、これまで「豊かな自然を守る」ことを目的として規制されていた市街化調整区域では、人口減少、少子高齢化、農林水産業の衰退など深刻な問題に直面しています。
はじめに
山口さん(以下山口)本日は「宿」をテーマにお2人のゲストに来ていただきました。お2人とも、いわゆる宿泊所としての「宿」ではなく、その地域や背景にいたるまで多層的な側面から「宿」を運営しておられます。私としても非常に興味深い。今日は進行を務めさせていただきますが、一方で参加者のみなさんと同じような立場で今後のヒントになるような視点を吸収して持ち帰りたいと思っております。
まずはゲストの方々に、自己紹介を兼ねたプレゼンテーションをして頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
雑誌と宿をつなぐ編集者・岩佐さん
岩佐さん(以下、岩佐)こんばんは。今日は新潟から参りました。とはいっても、私は新潟出身ではなく3代に渡って東京で生まれ育った江戸っ子です。新潟には縁もゆかりもなかったのですが13年前に移住し、そこで出版業を営んでいます。「本当に良いものを伝えたい」を原点にした雑誌『自遊人』の編集長をしておりまして、「旅」と「食」をメインテーマに全国各地を渡り歩いています。一方で、新潟の美味しいお米を知っていただくために、米の栽培と販売もしています。
2年前には築150年の古民家をリノベーションして、宿「里山十帖」をオープンしました。地元にあった古い温泉旅館が廃業することになり「継いでみないか」という提案を頂いたのがきっかけで、急遽旅館を運営することになったんです。ここは内装から料理のレシピに至るまで、すべて私がディレクションして生まれ変わりました。12ある客室はすべて異なったコンセプトのもとにデザインされており、どれひとつとして同じつくりの部屋はありません。
「雑誌」と「旅館」。何のつながりもないようですが、私のなかでは明確につながっているんですね。「里山十帖」には「食」「住」「衣」「農」「環境」「芸術」「遊」「癒」「健康」「集う」という10の「物語」が詰まっています。雑誌が特集記事で様々な価値を提案するのと同じように、宿を通して10の物語を提案する。しかも雑誌のように読んで頭で理解するのではなく、身を以て体験できる。そういう意味で、バーチャルメディアとしての雑誌に対する「リアルメディア」とも呼べるものです。
例えば宿には、私がセレクトした椅子が多数置いてあります。どんなに言葉を尽くしても文字だけでは伝えられない「椅子の座り心地」を、実際に体験してもらうことができるんですね。そして実際に良いと思ったら、館内のショップで購入することもできます。椅子だけではありません。家具や食器なども、使って納得していただいた上で買えるような環境が整っています。そういう意味において、一番のメディアはインターネットでも新聞でもテレビでも雑誌ない、「場」だと私は思っているんです。
まち全体をホテルにした建築家・宮崎さん
宮崎さん(以下宮崎)今日はよろしくお願いします。自己紹介の前にまず、マクロな視点から国土交通省による「日本の人口の長期的な推移表」をご覧下さい。鎌倉幕府成立時期から現在までを表にしたもので、最近までずっと増え続けています。しかし2006年をピークに減少に転じ、その後はグラフを鏡に写したような減り方をしていくというのが、国交省が示している日本の未来です。
次にミクロな話をしますと、僕、最近頂きものがすごく多いんです。壷、額縁、照明器具など、変なものも多いんですが、ベンツなんかも頂いてしまい、今はタダでベンツに乗っています(笑)。これは単に僕が貰いがちだということもあるかもしれませんが、社会全体を見ると「ものを持て余す時代」になっているんじゃないか。右肩上がりの時期は「持ちたがる時代」、つまり家や車などを所有することが目的だったと思うんですね。「ものをつくる仕事」である建築家を名乗っている僕からすると、「持ちたがる時代」には「ものをつくる」で十分だったと思うんですが、「持て余す時代」になると、ものは「使える人」のところに集まっていくという気がしています。逆にものを上手く使えない人は、使える人に譲る。さきほどの人口推移の表ですが、鏡に映したような世界になっていくのと裏腹に、ものに対する価値感は逆向きの世界になりつつあるということを、自分の生活のなかでも感じています。「ものの使い方」を考えていくと、「家の使い方」、最終的には「まちの使い方」に行き着くと思うのですが、ここで僕が取り組んでいる事例をひとつご紹介します。
〈東京谷中・HAGISO〉
「HAGISO」は、東京の谷中というエリアにある築50年の木造家屋をリノベーションした建物です。もともとは空き家だった「萩荘」を、学生の頃に格安で借りて友人たちとシェアしていました。2011年の大震災のあと、大家さんから「このままじゃ危ないから萩荘は壊して駐車場にする」と言われたんですね。一旦は了承をしたんですが、そのままなくなってしまうのも悲しい。そこで萩荘のお葬式を企画しました。線香をあげてしんみりするのではなく、死化粧を施してお祭り騒ぎにしようじゃないかと、「ハギエンナーレ」と銘打って3週間開催したところ、口コミや通りがかりの人たちがだんだん増えて、最終的に1500人のお客さんが来てくれた。それを見ていた大家さんが「このまま無くなってしまうのももったいないね」とつぶやいた言葉を、僕は聞き逃さなかったんです(笑)。そしてリノベーションして残すことになり、2013年に晴れてHAGISOとして生まれ変わりました。
僕はHAGISOを「最小文化施設」と呼んでいるんですが、ここには行政から補助金をもらって作るようないわゆる「公共文化施設」ではなく、もっとプライベートな空間を作りたいという思いを込めています。当初はカフェやギャラリー、オフィスなどで運営をはじめました。現在もギャラリーでは月替わりでアート作品を展示するのですが、アーティストからは一切お金は頂かず代わりにカフェで食事をしてもらうという仕組みを利用しています。そのほか、音楽やパフォーマンスのイベントやまちづくりの会議などを行っています。最初は苦労もしましたが、オープンして3年半くらい経ち、ようやく今はカフェだけで年間3万人のお客さんに来ていただけるようになりました。
そして1年ほど前に近くの空き家を新しく借りてはじめたのが宿泊施設「hanare」です。HAGISOを軸に谷中のまち全体を大きなひとつのホテルに見立てられないだろうかというのがコンセプトで、例えばお風呂はまちの銭湯で、食事はまちの食堂で、お土産はまちの商店で、レンタサイクルはまちの自転車屋さんでというふうに、まちにある既存のコンテンツを使えると思ったんですね。通常のホテルだと、お風呂が部屋にあるのは当たり前ですし、レストランもある。お土産物もそこで買えちゃう。それに対してhanareは、お風呂も食事も外。まちの人に会ったら挨拶しなきゃいけないし、もしかしたら面倒なことだらけかもしれない。そんな「負荷」が積み重なっていくことによって生まれる新しい「価値」が、「負荷価値」ならぬ「付加価値」なのかもしれないし、それを感じて欲しいとも思っています。
最後に海外の事例をご紹介します。実はhanareのように「まち全体をひとつのホテルに見立てる」という形態の宿がイタリアにもあるんです。「アルベルゴ・ディフーゾ」、直訳して「分散したホテル」です。民泊ともゲストハウスとも違ってちゃんとした定義づけもあり、協会もある。実はこの協会に、hanareが非西洋圏で初めて登録されました。
情報が先の時代より、後についてくる時代へ
山口お2人のアプローチは、似ているところもあるけれど違うところもあって大変興味深いですね。
岩佐アルベルゴ・ディフーゾという宿泊形態は初めて聞きました。実は僕もシャッター商店街をホテルにしようという取り組みをしています。また宮崎さんと僕の共通点があるとするならば、「つくる」ことなんじゃないかという気がします。
宮崎建築家としてはもちろん「つくる」ということは前提としてあるんですが、僕の場合は順序が逆で「使う」から「つくる」に寄っていくというアプローチなんです。これって編集的な視点だと思うんですね。すでにあるものを自分の頭の中でどう使っていくのか編み直す。
山口お2人には共感できるところが多いように思いますが、世代間の違いなどはどう感じられますか?
岩佐「年下だから」とかは全然関係ないですよね。むしろ世の中で新しい価値感をつくっている人に対しては非常に共感します。
山口岩佐さんは東京から新潟の南魚沼に移住された。今でこそ地方創生や移住などをよく耳にしますが、当時の周囲の反応はいかがでしたか?
岩佐移住する1、2年前から自分たちの生活を見直したいと会社で話していたんですが、例えば神奈川の厚木に引っ越すくらいなら新潟のほうがいいよね、みたいなことも言っていて。同時に僕自身お米について勉強をしたかったので、だったら米どころの魚沼にしようとすんなり決まった感じでした。ですので僕のなかでは厚木に引っ越すのと同じ感覚。「よく思い切りましたね」なんて言われますが、新幹線で行けるし、日本のテレビも見られるし、健康保険証も使えるし、日本語が使えますよ(笑)
山口仕事面ではどうですか?
岩佐問題ないですね。1998年の長野オリンピックのとき、軽井沢のサテライトオフィスでデータ通信しながら仕事をしていたんですが、そのときすでに「インターネットが早くなったらどこでも仕事できるね」と言っていたくらいでしたから。
山口それが現実になった、と。
岩佐そうです。でも理論的には仕事ができても現実にはどうなのかというと分かりませんよね。だから行ってみようと。お気楽なんです。
山口そのときすでに「宿」を運営することはお考えでしたか?
岩佐絶対にやるまいと思っていました(笑)
会場(笑)
岩佐「宿」っておそらく、もっとも大変な仕事のひとつなんです。初期投資が大きいわりに利益率が低い。朝昼夜関係なく稼働しなければならない。ただ見方を変えると、朝昼夜関係なく何かを提案できるって、メディアとしてすごく面白いと思ったんです。
山口岩佐さんのメディア観についてもう少しお聞かせ下さい。さきほども、「一番のメディアは場所だ」とおっしゃっておられました。
岩佐僕はよく「米=ひとつのメディア」だとよく言うんです。雑誌で組まれている米の特集は、たいていが「誰がどんな思いでどうやって育てているのか」という物語を描いて、だから美味しいんだと導く。でも文章を読んでもらうよりも、食べてもらったほうが早い。食べたあとでどうして美味しいのかを考えたほうが簡単だし、人間らしい。「情報を聞く→食べる」という従来の順番を逆転させた「食べる→知る」のほうが、身をもった体験だから強度がある。そう思って始めたのが、米の販売でした。そしてその延長線上にあるのが旅館です。これもつまり、まずは何かを感じてもらおうと。それが、僕が「リアルメディア」と呼ぶ所以なんですね。「メディアとは何なのか」と言ったときに、もちろん人間の身体を媒体としたメディアという考え方もありますが、僕は「もの」だと思っています。「もの」の持つ力って大きいんですね。
山口なるほど。地元の方々はどのような目線で見られていますか?
岩佐田舎の旅館って、よそから来た人に売ったり譲ったり任せたりしないものなんです。僕のところに旅館を譲り受ける話がきたのは移住から8年が経った頃でした。この8年という期間があったから、お声をかけていただいた。反対する人もいなかったし、住民説明会を開いてくれなんてひと言も言われなかった。僕らもそのご縁を大切にしなければならないという気持ちで「やるしかない」と。新潟って東日本大震災でも被害にあってますし、お米も全然売れなくなって、とにかくひどかったんです。その状況のなかで「頑張ってくれ」と地元の人たちから言われた感はありますね。
山口ありがとうございます。
自分がつながっている「場所」から何かをはじめるということ
山口一方の宮崎さん、以前は有名な建築事務所に所属されて大きな仕事もしていらしたと思うんですが、そこを辞めて小さな箱のために奔走することに抵抗はありませんでしたか?
宮崎本当に大きな仕事を任されていました。海外のほうでもいくつか仕事をしましたが、どれも実感のないものばかりでした。つまりリアルな感じがしなかった。自分の足元がふらふらしているなと感じていたちょうどその時期に、地面が揺れた。2011年の震災です。それまで自分の身体とひとつにつながった地面こそが、自分の「場所」だということを忘れていた。震災後はボランティアもしましたが、役に立った実感もない。僕は、自分と接続している「場所」から始めないと何も変わらないと痛感したんですね。それが萩荘だった。
山口それまで建築家として仕事をしてきた宮崎さんにとって、宿やカフェやギャラリーを運営するということはまた違う世界だと思います。何が宮崎さんをそこに向かわせたのでしょうか?
宮崎大家さんを説得して、設計案を出して……と僕がすべてを進めていたので、自分でやらざるを得ない状況になっていたのもありますね。なんとかなるだろうという根拠のない自信もあったのかもしれません。
山口当時から宿をつくろうというビジョンはあったのですか?
宮崎いえ、2年目くらいまでは考えてませんでした。きっかけは、ローマに旅行したときのことです。まちで一番安い宿を紹介してもらったんですが、そこはアパートの一室がレセプションになっていて、「はい、これが君の部屋」と、他の部屋の鍵を渡されるんです。ご飯も紹介してもらった店に食べに行く。きっと彼らはアパートを所有できないからそういう形態の宿泊所をつくったのだと思うのですが、僕のような旅行客にとっては、旅先であると同時にまちに住んでいるような感覚もあり、これをHAGISOでやると面白そうだなと。
山口なるほど。お2人が宿をはじめられた経緯がだんだんと見えて参りました。後半では、参加者の方々と交えながらもう少し掘り下げてお話をお聞きしていきたいと思います。