山下商店甑島本店
昔ながらの“当たり前”を守る
瓶のふたを開け、スプーンですくいとってパクッ。しっかりとした大豆の味を口の中でゆっくりと広げ、味わってまた一口。満足感のある味なのに、カロリーがピーナツバターの半分だと聞いて、驚いてしまう。 動物性油脂は使わず、植物由来のものだけ。大豆は九州産のフクユタカのみ、メープルシロップやサトウキビ由来の黒糖で、自然な甘さを引き出している。全ての材料を手で撹拌しながら、2時間かけて煮詰めていく。1日に300〜400本しか作ることができない、貴重な大豆バターだ。 「カロリーの事はあまり謳ってないんです」というのは『山下商店』の代表を務める山下賢太さん。まずはしっかり味を伝えること。手に取ってもらってはじめて、低カロリーのことや素材のよさに気づいてもらい、安心して食べてもらいたいと話す。ほかにも、定番のお豆腐や厚揚げ、生で食べられるおからに濃厚寄せ豆腐。そのどれもがおいしくて、お豆腐に対する概念を変えてしまうほど。「いろんな豆腐屋に怒られているんですよ」と賢太さん。「なぜ?」と聞くと、 “真面目に作っている”からだそう。昔のお豆腐屋さんが当たり前のようにしていたことを普通にしていたら、「経営を考えたら、そんな馬鹿正直にしなくても、もっと効率的にまわしていける方法があるぞ」と怒られるのだそう。消費者にとっては耳を塞ぎたくなるような話。「当たり前」、「日常」こそ、山下商店が大切にしていることなのだ。
「この島をあきらめたくない」
甑島には高校がなく、島の子どもたちは中学校を卒業すると、みんな島外へ出て寮生活や自活生活を送る。賢太さんは競馬のジョッキーになるため、千葉県の養成所に行くことを選んだ。しかし体調を崩し、16歳で島に戻ってきた。しばらくは、漁師の元できびなご漁を手伝っていたが、もっと学びたいと思い、特例で卒業した中学校で半年間学んだ後、再び島を出た。1年遅れて高校を卒業し、京都の大学に進学。その大学で学んだ環境デザイン(建築を基盤とした街づくり)が、現在の賢太さんの考え方にも影響を与えている。大学卒業後就職した京都の企業では、景観計画や、町屋の活用などに携わる仕事をしていた。そんなとき、夏休みに甑島に帰省した際、近所のおばあさんに言われた言葉が強く引っかかったという。「『向こうでがんばってるけんちゃんも素敵だけど、今ここにいるあなたが好き』って言われて。いつかは島に帰りたいという思いはあったんですが、この言葉で、何かできるようになってからの自分ではなく、いまの自分でもいいんだ、ただ島にいることで何かを支えられるのかもしれないと気づいたんです」と賢太さんは当時を振り返る。
「ふるさとが好きで帰ったのとは違うんです。島を好きになりたくて帰ったんです」。 “昔は良かった”とはよく聞く言葉だけれど、それは“今は良くない”ということの裏返し。「今をあきらめてしまいたくない。自分の世代があきらめると、次世代の子どももあきらめてしまうから、それだけはしたくない」。そんな賢太さんの言葉に、悔しさと強い決心がにじむ。
島に帰ってまず取り組んだのは農業だ。そこには、祖父母と畑に行っていたときの、家族の形や原風景を取り戻したい想いがあった。米を作り、新米のおいしい時期だけ限定で販売を始めた。さらに島の加工品作りも開始した。そうして機会を見つけては「山下商店」と屋号をかまえてイベントなどに出向いた。すると、「今度甑島に行ったら、山下商店に行きますね!」と声をかけられるように。実店舗はまだなかった当時、これは甑島に拠点が必要だと気づき、お客の声に背中を押されるように現在の店を構えることになった。
意外だったのは、賢太さんが豆腐を作りたくて山下商店を始めたわけではないということ。「自分が何かを始めないと、島の日常が途絶えてしまう。そのために、豆腐をコミュニケーションのきかっけにしようと決めたんです」。 山下さんの幼いころ、実家の両隣がお豆腐屋さんだったそうだ。土曜の朝になると、ねぼけまなこをこすりながら、ボウルを持ってお豆腐を買いに行く。そこには豆腐屋のおばちゃんが湯気の中で、誰かの朝ごはんのために早起きして働く姿があった。港ではラジオを聴きながら漁師さんが網を紡ぐ。夕暮れの海辺のベンチでは、夕涼みをしながら他愛ない会話をする島の日常。そういう人たちが、この島を作っていた。 賢太さんはその風景を守っていくための一つの手段として、豆腐をえらんだのだ。
島のみんなと成長し続ける。
現在、山下商店では甑島での豆腐製造販売とカフェ営業以外に様々な事業が動いている。宿泊施設の「藤や」の運営や中甑港のフェリーターミナル跡をリノベーションして4月に完成する公共施設「コシキテラス」の運営管理も始まろうとしているのだ。この5年間の中で、今が一番慌ただしい。週に3日は早朝3時から豆腐を造り、カフェでは珈琲も淹れる。賢太さんのモチベーションはどこにあるんだろう? 賢太さんに投げかけると、「やっぱり、この島をあきらめたくないから」とまっすぐな答え。「自分が命をかけてやるに値するかどうか。それが知りたい」。山下さんが今一番やりたいのは、島の人たちに成功体験をしてもらい、一緒に成長していくこと。みんなが快く儲けられる仕組み、ファンドを作ること。 「島を訪れたお客さんが島のものを買う、食べる。健全なお金の循環があって、町に還元される。その流れができればまた新しく投資もできる。あそこに何か作ろう、あの子の夢に投資、寄付しよう。そんな風に、自治力をもって、島の未来にみんなが関わる。後に続いていく世代のことを考えながら、死ぬまでに作りたいんです。元々、日本はまだ見ぬ人のことを考えて、切り開かれてきたはずなので、やれるはずだから」。 賢太さんにとって、今ここにゴールはない。島の未来に新しい風景を描きながら、日々淡々と想像を形にしていく山下商店。島の変わらぬ日常に、新しい風景が加わろうとしている。