RethinkFUKUOKAProject

その音楽は、ボーダーを軽々と超えていく 渋谷系がもたらした、音楽とカルチャーのしあわせな時間について

Rethink FUKUOKA PROJECT レポートvol.050

アナバナではReTHINK FUKUOKA PROJECTの取材と発信をお手伝いしています。

170519_0206

「Rethink FUKUOKA」をコンセプトに、エネルギッシュに変わりゆく福岡の地でカルチャー、政治、経済、ライフスタイルといった様々なジャンルから今一番輝く人をお招きするトークイベント「Rethink Fukuoka Project」。おかげさまでなんと50回目を迎えました。
今回は、福岡で一番気の多い男こと、ラブエフエム(※1)の三好剛平さんがナビゲートする「「Culture Class」」の第二弾をお届けします。

テーマは、80年代後半から00年代にかけて隆盛を極めた一大ムーブメントであり、現在の音楽シーンにおいても再注目を集めている「渋谷系」。ゲストには、その創生期から音楽に携わり、【ひとつのまちに集う多様な人々がうごめき、交わり、そして離れて行ったある熱狂の季節】としての「シブヤ景」を提唱するDJ/編集者のミズモトアキラ氏をお迎えしました。さらに、相方役にはミズモトさんの友人でもあり、ゴリゴリの肉食系ロックが支配していた90年代の福岡に渋谷系サウンドで反旗を翻したバンド「インスタント・シトロン」の元ベーシスト、現在は大濠公園奥座敷「PARKS RECORDS」大女将として活躍する松尾宗能さんも登場!

 日本のミュージックシーンの一大転換期となった渋谷系音楽、それを取り巻く人やカルチャーまでを含めた一つの景色「シブヤ景」。その成り立ちと隆盛期、そして福岡との関わりとは? 自らも「シブヤ景」の一部として生きる二人の音楽人と一緒にRethinkしてみましょう。

(※1)ラブエフエムWEB http://lovefm.co.jp
(※2)ミズモトさんのWEB http://www.akiramizumoto.com

 

170519_0116

あの頃、音楽シーンに何が起こっていたのか。
二人のストレンジャーが見た“渋谷系”

三好 どうもこんばんは! 三好剛平と申します。普段はラブエフエムというラジオ局で営業をしております。公私共にカルチャー系の企画に関わる事が多く、音楽、映画、アートと欲張りに摂取する私でございます。そんな私のトークシリーズ「Culture Class」の第2回目のタイトルは「宇田川町から遠く離れて 〜ぼくらの『シブヤ景』」です。

「シブヤ景」の「景」の字がちゃうやんけ! とツッコまれそうですが、それはまた後ほどこの方にお聞きしてみましょう。「渋谷系」にアプローチをされているDJ・編集者・ライターのミズモトアキラさん、そして「渋谷系」のムーブメントを福岡の地で当事者として生きた松尾さんです。ではミズモトさん、まず自己紹介をお願いします。

ミズモト 僕は1969年生まれなので「フリッパーズ・ギター」や「スチャダラパー」、「サニーデイ・サービス」など、いわゆる「渋谷系」のアーティスト達と同世代です。出身は四国の松山。1988年に大学へ入学するために上京して、それ以来25年間東京近辺に住んでいましたが、2013年にUターンし、今はまた松山を基点に仕事をしています。なので、単純に東京生まれ、東京育ちの人が渋谷系を語るのとも違うし、三好さんや松尾さんのようにずっと福岡を拠点としているわけじゃなくて。僕自身は地方出身者として、渋谷系の時代にたまたま東京にいて、そのエッセンスを吸収したって感じですね。

三好 渋谷系の中の視点、そこから一歩距離を置いた外の視点を同時に持っていると…。

ミズモト そうですね。インサイダーというより、外側からの視点の方が強いと思います。

三好 なるほど、そんなミズモトさんでございます。では次に、松尾さんのプロフィール(※3)を見てみましょう。写真からまずおかしいでしょ。うさん臭いなあ(笑)

ミズモト 問題作だね(笑)。

3

 

松尾 ミズモっちゃんのイベントだから、これ選んだんだけど、間違ってたみたいね(笑)

三好 うさん臭くないところを探す方が無理ですよね!

松尾 そうそう、うさん臭い写真を撮ろうと思って撮りました。

三好 右の方のおっぱいが…。もう完成させてますね。

松尾 そうでしょ!

三好 肩書きで言うと、大濠公園奥座敷「PARKS RECORDS」大女将という…。

松尾 2006年から10年間やっていた「PARKS」というレコードショップを去年閉めまして、その跡地を実験的なイベントスペースにしました。畳を敷いてね。よくクラブで座って聴くとか、寝っ転がって聴くイベントをやっていたんですけど、そんなスペースを真面目に作ろうと思って。

三好 皆さん、全然イメージ湧かないでしょう。これね、あえて引っ張ります。後ほどお見せしますので。まずは、松尾さんの歴史を拾いましょう。1980年代の終わりに、「シューゲイザー」というジャンルのバンドをやり始めたと。

松尾 そうですね。僕も生まれが1968年なんで、同世代なんです。「The Jesus and Mary Chain」とかが流行ったころですね。

三好 皆さん、今のバンド名を知ってる方いらっしゃいます? ちなみに今日はバンド名がバンバン出てきますが、それいちいち拾うと大変なので、大まかに掴んでください。どこかで必ずつながってきますから、分からなくても大丈夫です!

松尾 まあ、ギター轟音系ですね。アンプをフルで鳴らして、ノイズに近い音を出していたので、ライブハウス側からすると迷惑なバンドでしたね。そういう活動の中で、片岡知子さんと長瀬五郎さんと知り合って、新しくバンドを始めました。

三好 それが3人組のバンド「インスタント・シトロン」なんですね。プロフィールには「売れるかもしれんと思う」と書いてますけど。

松尾 そう。これは売れるなと思ってね。

ミズモト どういうところで活動してたんですか?

松尾 「シューゲイザー」の時は普通にライブハウスだったんですが、「インスタント・シトロン」の時は福岡でもいわゆるクラブ的なものを始める人が出てきた頃だったんですよ。BARの一角にDJができるスペースができたり、潰れたスナックやキャバレーを改装してクラブを始めたり。そういうところでライブをやっていました。

三好 1996年「宇宙の神との交信に成功し、インスタント・シトロン脱退」、レコード店に転職すると(笑)

松尾 この頃ね、僕はミズモトくんと知り合ったんですよ。福岡で一緒にライブをやる事になって。ミズモトくんが「ワム・ジャポン」という名前で出たんですよ。

ミズモト 僕が参加していた「ヴァガボンド・シネマ・ポップス・アーケストラ」というバンドがありまして。演奏はあまり得意じゃない上、引っ込み思案のメンバーが多かったので、あまりライブをやってなかったんです。で、同じくライブが苦手だった「インスタント・シトロン」と合体して、いくつかイベントに出演したんですよ。それで一緒にやるときだけ「ワム・ジャポン」と名乗ってた。

松尾 「X JAPAN」的なね。

三好 (笑)。ワムって、あの「Wham!」ですよね。

ミズモト そう。僕が付けたんですけど。どうしてワムだったのかは、まったく覚えてない(笑)。

三好 それじゃ、お二人は20年来の付き合いなんですね!?

松尾 何年かに一度お会いする、薄く長い付き合いでしたけどね。

ミズモト そのときにものすごく印象深い出来事がありまして。会場はたしかビブレだったと思うんですけど───。

松尾 西新ビブレの地下にね。

ミズモト で、リハーサルの後に時間が余ったから、ビブレの近くのボーリング場に行って、メンバーとボウリングをしたんです。そしたら「インスタント・シトロン」の長瀬五郎くんと僕が2ゲームやって、スコアが2回ともまったく一緒だったんです(笑)。で、ライブが終わって、打ち上げのあと、ためしにもう1ゲームやったら、また同じスコアだった(笑)。まだ家のどこかにスコア表が残してあると思う(笑)。

三好 かわいい歴史だなあ(笑)

ミズモト たぶん僕らも宇宙神と交信してたんでしょうね(笑)。いつか「ワム・ジャポン」のアンソロジーCDを出す時は、おまけでそのスコア表を付けようと思ってます。

三好 わはは! まさに。それで、松尾さんのプロフィールに戻りますけど、2006年に宇宙神との交信が途絶えます。レコードショップ「PARKS」を開業すると。ついにお店を構えられたんですね。

松尾 ええ、俺が宇宙神になろうかと思って。

三好 すごい(笑)。で、レコード店を続けつつ、「星野みちる」さんへの楽曲提供。

松尾 2013年くらいから曲を書いてみないかという話をいただくようになって。それでちょっと楽曲制作にシフトしていきました。地元のアイドルに楽曲を提供して。

三好 そして、2016年には元「インスタント・シトロン」の長瀬さんと一緒に、地元で活動していたアイドルの「浦郷えりか」ちゃんをプロデュース。

松尾 そうですね。彼女は、博多銘菓「博多の女」の新しいCMの主演女優なんですけど。

三好 これも売れるなって予感があったわけですね。

松尾 そうですね。渋谷のタワレコでドーンとパネル展開されたりして。

三好 「バウンス」にも出てましたよね。…にもかかわらず?

松尾 そう、あの子、タレント事務所のオーディションを受けて東京に進出しちゃったんですよ。

三好 プロデューサーとしては一番傷つきますね。

松尾 そうそう。あ〜、そっち行っちゃうんだって。こちらもしっかりとした契約を結んでなくて、初期のファクトリー・レコード(英国のインディレーベル)式というか、仁義でつながっていた所があるから。「え、ハンコ押しちゃったの?」「押しちゃいましたけど」って。

三好 まあ彼女の成功へのステップだと思えばね。育てたアイドルが芸能界に強奪されたけど(笑)。それで、今年「彼女のサーブ 彼女のレシーブ」という新たなガールポップのユニットとか、ラバーズレゲエミュージシャンの「若草ふわり」さんとか。楽曲提供やプロデュースをされていらっしゃるという。

松尾 はい。どうやら福岡にはオリジナル曲でラヴァーズのシンガーやっている人っていなさそうだったので。

三好 そこを狙っていくぞと。あ、今かなり悪い顔しましたね(笑)。松尾さんはレコード屋をやりつつ、アーティストのプロデュースもできる、マルチなタレントで、RKBラジオ「ドリンクバー凡人会議」(※4)という番組に出演されていらっしゃるんですよね。実はこの番組ですね、めちゃ耳が早いんですよ。出演者の皆さんはめちゃ音楽詳しくてトレンドの3歩先を捉えちゃうもんだから、流行るのが2年後くらいになっちゃうんですよね。

松尾 大体流行った頃には東京に持っていかれちゃう。

三好 そうそう。月9で福山雅治さんと共演したシンガーの「藤原さくら」さんとかね。

松尾 さくらちゃんのお父さんとは90年代、渋谷系の時代にバンド同士で親しくて、その流れでね。

三好 あとインドネシアのシティポップバンド「イックバル」とか。多分、日本で一番早くオンエアされてましたよ。バンドをいち早く発掘して、東京の音楽シーンがその上澄みを抜いていくというね。で、先ほど話していた「PARKS RECORD」なのですが、もともとショップだった建物を、この春からイベントスペースにされたんですよね。

ミズモト インスタ映えする空間にしようと(笑)。

(※3)問題の松尾さんのプロフィール
http://rethinkfukuokaproject.com/post/159825407634/050

(※4)ドリンクバー凡人会議WEB
 http://blog.rkbr.jp/bonjin_kaigi/

 

松尾 そうそう。今の時代はね。

三好 ここは、どんな空間なんでしょう?

松尾 畳貼りでキッチンもあるのでゴロゴロしながら食べたり飲んだりとか、基本はレコード店なのでレコードを格安で出したり。DJができるセットも組んでいるので、イベントのご用命もぜひ!

三好 あとは、アイドルのプロデュースもされているので、この空間に平然とかわいいお嬢さんがいらしていることもありますよね。見知らぬ人同士が交流を深めていく場でもある。

ミズモト 平たく言えば、この空間こそが「シブヤ景」そのものですよ。

松尾 実はそうなのかも。音楽、カルチャー、アート、漫画。色々なジャンルが交わる複合施設というか。そんな空間になればいいですね。

ミズモト ここに来れば、いつでも宇宙神とチューニングできる(笑)。

三好 インスタではこの写真の上に「どいつもこいつも全然ダミだぁ〜とつぶやいていました」って書いてますね。

ミズモト 相当ダメな人っぽく写ってますよね(笑)。

松尾 (笑)。色々ね、ブッキングがうまくいかなかったんですよ。

三好 こんな空間で今は活動されていると。それで、「渋谷系」について考える中で、松尾さんが所属されていた「インスタント・シトロン」についても、知っておくと話が捉えやすいかなと思いますので、簡単に説明します。1993年に結成して、福岡を拠点に活動しつつ、かなり具体的に東京のシーンと交流されていたとか。

松尾 そうですね。「東京タワーズ」の加藤 賢崇さんのラジオ番組にデモテープを送ってくださった福岡のインディ・レーベルの方がいて。加藤さんが聞いてくれてすごく褒めてもらいました。そこから東京のシーンやレーベル、東芝EMIなどとのお付き合いが始まったという感じですね。

三好 渋谷系が全国的に流行っている中で、「インスタント・シトロン」が福岡側からの渋谷系という位置付けになったと。

松尾 そうですね。その頃は東京に「ハイファイレコードストア(※5)」にカリスマ的なバイヤーさんがいたり「マニュアルオブエラーズ(※6)」ができたばっかりの頃かな。東京に遊びに行って、店員さんと仲良くなって、個人的なお付き合いが始まって、そこから仕事の付き合いに発展した感じですかね。

三好 当時は「テンジン系」と呼ばれていたんですって?

松尾 そうですね。「エレキハチマキ」や「スモールサークルオブフレンズ」というバンドと一緒に「ニューテンジン系」と呼ばれていました。「ニューテンジン系」の名付け親の白水さんはクラブなどのオーガナイザーでアーティストを招聘する人、いわゆる「呼び屋」さんです。当時、「UFO」とか出始めの「東京スカパラダイスオーケストラ」なんかを呼んでいる人で、僕らも遊びに行かせてもらって。それまでライブの主流だったライブハウスとは違うシーンで交流を深めていました。

(※5)(※6)東京の独立系レコードショップ

 

170519_0054

カルチャー好きの桃源郷!
聖地・宇田川町の音楽事情について振り返る

三好 さて、お二人の活動をおさらいしたところで、今回は「宇田川町から遠く離れて 〜ぼくらの『シブヤ景』」というテーマでトークを進めていきたいと思います。まず、「シブヤ景」というワードについて、ミズモトさんはどう捉えていらっしゃいますか?

ミズモト そうですね。見ての通り「渋谷系」ではなく、あえて「シブヤ景」と表記しています。あくまで、ぼくの目から見た「渋谷系」ということで「シブヤ景」なんです。そもそも「渋谷系」ってなんなのか───僕自身は一過性のブームではなくて、戦前から日本の中に綿々と続いている文化潮流のなかのひとつと捉えています。もともと日本の現代文化って、明治の開国以来、海外からの影響無しに成立したものって、ほとんどひとつもないですよね。料理だろうが、洋服だろうが。海外から輸入したものに日本独自の要素を乗っけたり、混ぜあわせて作ることが当たり前なわけです。音楽で言えば、欧米のポップスやジャズが輸入されて、日本の歌謡曲のタネになった。渋谷系に関して言えば、クラブDJやレコードバイヤー、あるいはDJ的な感覚の優れたクリエイターなどが中心となって、知られざる名盤の掘り起こしがはじまりました。背景には円高が進んだことで、輸入盤のレコードやCDの値段が下がって買いやすくなったこと。ほかにも海外資本の大型CD店が次々と日本にできたこと……などなど、たくさんの要因が挙げられると思うんですけどね。まあ、基本的には明治時代から日本人がやってきたことのひとつのバリエーションじゃないですかね。

三好 そうなんですよね。皆さんの中でも「渋谷系」が持つイメージって全然違うと思うんです。人によってはカルチャーやファッション用語としても使われますよね。

ミズモト そのうち、チーマーとかヤマンバギャルみたいな文化も渋谷系って言われ出したりして(笑)。

松尾 そっちは暴れん坊の文化なんだよね。

ミズモト そうそう。センター街を中心としたアウトローな文化。そっちの渋谷系も語ると面白いと思いますけど、今日は省きます(笑)。でね、いわゆる「系」という呼称って、どっちかというと差別的な響きを含んでたんですよ。「系」の前は「族」でしたよね。「竹の子族」とか「みゆき族」とか「カミナリ族」とか。80年代のバラエティ番組やラジオで、とんねるずが身内の業界人を指して「ギョーカイ系」と呼び出したんですよ。あとは、オタクですね。オタクは最初「オタク族」って呼ばれていたんです。「族」と「系」って違うじゃないですか。「族」って軍団っぽいでしょ。外からの人は受け入れないイメージがあるけど、「系」っていうのは、銀河系とか太陽系とか、大きなモノの中の一部で出入り自由なイメージがある。そんな部分も面白いなと思います。

三好 もう少しゆるやかに許容できる幅が必要だったと。

ミズモト だから「渋谷族」ではなく「系」というワードがぴたっとハマったのかと。

松尾 共通しているのが、渋谷っていう場所だったぐらい。

三好 当時の渋谷ってどんな感じだったんですか?

ミズモト バブルの末期で景気はめちゃくちゃ良かったですよね。バイトの時給もよかったし、お金があふれている感じがひしひしと伝わってきました。無料で見られるコンサートや展覧会が山ほどありました。いわゆる企業のメセナ活動ってやつです。情報のギッシリ詰まったおしゃれなフリーペーパーもどんどん発行されるようになったし、僕みたいな貧乏学生にとっては、すごくありがたい時代です。YouTubeとかSpotifyのことを悪く言う人も多いけど、あの頃だっていろんなものがタダだった。

三好 文化的な刺激に非常にアクセスしやすかったんですね。「渋谷系」という言葉自体なかなか定義しづらいと思いますが、出てきた時期はいつぐらいだったんですか?

ミズモト 1993年とか94年とか言われていますけど。そのあと「バァフアウト!」の編集長になる山崎二郎さんが、ライター時代に初めてメディアで使ったとか、諸説ありますけど、いまだに誰が言い出したかはわからない。

松尾 当時は会話の中でみんなが使っていました。

三好 ゆるやかに生まれて定着したんですね。

170519_0163

ミズモト もちろん起爆剤になったのは宇田川町の真ん中にあった「HMV渋谷店」の邦楽コーナーです。その後「タワーレコード」も今の場所に移転して大きくなりました。中古レコードといえば、昔は西新宿がメッカでしたけど、渋谷にも続々と中古盤屋ができたんです。また新譜を扱う「シスコ」や「マンハッタンレコード」「ダンスミュージックレコード」といった店も、ジャンルごとに支店ができた。それらの店のレコード袋を持って、渋谷を闊歩する人の数と言ったら、ほんとにすごかったんですよ。

三好 その時の宇田川町って世界一レコード店が多いエリアだったんですよね。

ミズモト・松尾 そうそう!

松尾 世界中のレコードが集まってた。どの店にもうなるほどレコードがある。レコード好きとかカルチャー好きにとってはまさに桃源郷!

ミズモト 円が1ドル80円台だったんで、輸入盤なら12インチ1枚が680円とかね。信じられないような安値だった。いろんなお店が10円20円の価格差でしのぎを削ってました。あと当時はみんなアナログでDJをしてたから、ヒップホップのDJなんかは当然2枚買い。レコード店はめちゃくちゃ儲かってたと思います。

松尾 海外への買い付けも安かったもんね。旅費も安いし。その時に、アメリカでは二束三文だったものが、渋谷系と言われるところではものすごく貴重なものとして扱われるから価格差がものすごくあった。

ミズモト そういえばね、「横浜銀蠅」っているじゃないですか? 彼らのレコードって、銀紙に黒のインクでプリントされたド派手なジャケなんです。それがアメリカ人にめちゃくちゃウケたんですよ(笑)。革ジャンとサングラスにリーゼント、って彼らのファッションもめちゃくちゃキャッチーだし。で、「このレコードすげえだろ。ジャパニーズ・バイカー・ロックだよ」って適当なことを言うと、みんな喜んでレア盤と交換してくれた(笑)。サウンドも悪くないですしね。「日本のラモーンズだよ」ってうそぶいても、あながちまちがいじゃない(笑)

三好 うまい事言いますね(笑)

ミズモト ところで福岡は、ビートルズやストーンズみたいな王道の音楽を愛するイメージが強いんですよね、いつの時代も。福岡ほど都市性と音楽を結びつけて語れる場所ってないじゃないですか。音楽的な下地がものすごく整ってる。どんな音楽が流行っても、福岡から絶対に出てくる人たちがいるし。

松尾 その王道を愛するおっかない先輩たちが、90年前後にも君臨していて、オルタナティヴな音楽性ではなかなか活動しづらかった。

三好 ある種の原理主義みたいな流れがあったわけですね。

松尾 その人たちの子分になるんじゃなくて、彼らからすると軟弱に捉えかねないネオアコやニューウェーブのバンドを愛好する人は居場所が無くって。それじゃあ、僕らだけの居場所を作っていこうという動きがちょうど渋谷系とリンクしていたのかもしれませんね。

ミズモト 昔ながらのディスコやクラブでは徒弟制度というか、先輩DJのカバン持ちとか、皿は皿でも厨房の皿洗いからキャリアを始めたりしてたでしょ。その伝統が渋谷系の頃にあっさり崩れましたよね。レコードや音楽に詳しい人なら、誰でも即DJを名乗れるようになった。

松尾 それね、福岡もまったく同じ状況。古くからある大箱のディスコではまずレコードを運ばせるみたいな世界だったんだけど、ちょうど渋谷系の頃になるとただレコードが好きってだけで回してる人が増えてきたんだよね。

三好 大きな派閥が支配する中のオルタナティブな存在だったんですね。

ミズモト もちろんどっちが偉いとかスゴイって話じゃないんですよ。役割が違うというか。いろんなDJが参入することで、クラブとかディスコの存在意義だったり、楽しみ方の幅が広がったんです。

三好 クラブだと、発信者とお客さんという交流ベクトルじゃなくて、双方向的、いわば部活みたいな感覚だったんですね。その状況って、今と似ているんじゃないですかね。既存の大きなルールが決定的に疑われる対象になって、自分たちの快楽原則にもっと正直になる。しかも当事者意識を持って。「俺たちが面白いようにやるぜ」ってノリが生まれて来た状況だし、そういう人たちが参加しやすいムードがあったから渋谷系は定着したのかと思います。

松尾 いつの時代も大きな体制の中で窮屈に思う人は出てくるものだと思いますが、たまたま面白くしやすい状況だったのかもしれませんね。

ミズモト ただ、いちばん今と違うのは、クラブがクローズドな場所じゃなくなったことですよね。みんなもちろん携帯は持ってたけど、クラブって爆音だし、たいてい地下にあるから、電波が届かない。だから外にいる人とはほとんどやりとりできなかった(笑)。

松尾 当時は(SNSもなくて)誰もどこにも言えない環境だったから良かったですよね。やりたい放題やりっぱなしでできる。

ミズモト 今なんて自宅で寝っ転がって、世界的なDJがプレイしているところをスマホでリアルタイムに観られる時代じゃないですか。で、それをSNSでやいのやいの感想を述べあう。もちろん昔のクラブにだって、踊っている人だけじゃなく、ブースを覗き込んで曲名をただメモりにくるようなお客さんはいたけどね。それでも、みんな現場に足を運んでいたわけで。これは決定的に違うと思います。

三好 なるほど、面白い!

170519_0170

 


明治以降から続く日本音楽のDNAから読み解く
借り物がオリジナリティになる渋谷系ミュージックの面白さ

IMG_3167

三好 この図はどういう事なんですか?

ミズモト これはですね、大瀧詠一さんが考えた「分母分子論」というものを使って、僕が独自に解釈してまとめた表。いわゆるポピュラーミュージックの成り立ちというものをざっくり解説しています。まず、明治以前の日本人が生活の合間に歌っていた音楽は、日本人の心情から自然に湧き出した歌詞とメロディによって作られたものでしたよね。いわゆる民謡とか御詠歌と呼ばれている音楽のことですけど。それが明治の開国以降はどうなったかというと、衣服、料理、政治システムなんかと同じく、一気に西洋化したわけです。外国から学んだ西洋式の音楽を分母に、日本の歌詞や情緒を分子として乗っけて作った歌が、大衆の音楽になりました。これは坂本九の「上を向いて歩こう」だろうが、ピチカート・ファイヴの「東京は夜の七時」だろうが、宇多田ヒカルの「Automatic」だろうが、全部構造は同じ。ただ、渋谷系と呼ばれる音楽は、分母として選ぶ音楽にDJ的なセンスを反映させたり、強くこだわっているところが新鮮でおもしろかった。でも分母分子の関係という意味では明治時代からまったく変わらない。

三好 なるほど。

ミズモト ただね、こうした音楽的な翻案作業をくりかえし続けていくうちに、どこまでが洋楽の影響で、どこからが日本独自のものなのか、という区別が曖昧になっていくんです。たとえば「蛍の光」がアイルランド民謡だなんて、大抵の人は意識しないじゃないですか。そういう交配を続けていくうちに、日本独特なものができる。まさに今のJ-POPなんて、そういう音楽の宝庫ですよね。

松尾 「分母分子論」は、洋楽を基にした日本の音楽が土着化していって、最終的に日本の音楽を分母として、日本の音楽ができるという形に落ち着く。その流れがあると思うんですけど、渋谷系後のJPOPは、日本のものを聴いて日本の音楽を作り出している。それは、渋谷系が洋楽の上に日本の歌詞をのせた曲を全てやりきっちゃってるから。洋楽に影響を受けた日本の音楽を渋谷系で完全にドメスティック化して、そこからJPOPがスタートしたというイメージがありますね。

三好 それが「渋谷系以降のJPOP」みたいなものが生まれた背景なんですね。

ミズモト 僕ね、今の二人の話を聞きながら、大相撲の事を考えていたんですよ。

三好・松尾 相撲!?

ミズモト 外国出身の力士って、大相撲に入門すると、力士としての技とか肉体の鍛錬をする前に、しきたりとか精神論とか日本の伝統とかさ、「相撲取りはこうあるべき」みたいな部分を教えこまれるでしょ。たとえ横綱になっても、彼らの出自がどこであれ、日本人らしいふるまいみたいなものを求められる。その一方で、世界相撲大会みたいなアマチュアの大会があるじゃないですか。カラフルなまわしを巻いてたり、蹲踞とか四股とかもまともに出来ない人もけっこういて、同じ相撲なのにやたら面白い(笑)。渋谷系の魅力って、ああいう面白さだって気がするのね。世界相撲大会とは、分母と分子が入れ替わってるけど。

三好 渋谷系って、借り物がオリジナリティになりうる。

ミズモト もちろんその面白さを再発見するきっかけになったのは、ヒップホップの影響が大きいと思うんです。

松尾 HIPHOPを通して、曲を作る技術が身についたと。

三好 そう考えると、「江利チエミ」がマンボの曲に合わせて歌う昭和の歌謡曲っていうのは、ある種、渋谷系的なアプローチじゃないですか。

ミズモト そうそう。「江利チエミ」だろうが、「はっぴいえんど」だろうが、みんな渋谷系であり「蛍の光」でもある(笑)。あ、「はっぴいえんど」で思い出しましたけど、このあいだ京都の書店「誠光社」で、この「はっぴいえんどの場合」っていう画像をスクリーンに写して、一生懸命トークしてたら、突然、松本隆さんが入ってきたんですよ。

場内 え〜!

松尾 呼ぶね〜!

ミズモト 渡辺直美がビヨンセの真似したら、本物のビヨンセ入ってきちゃったみたいな感じじゃない?(笑) 会場の隣がイタリアンレストランで松本さんはそこの常連らしくて。食事を終えて、ふと隣の本屋を覗いたら、俺が一生懸命「はっぴいえんど」の話をしてるところに出くわした、と。そこから飛び入りで15分くらいお話してもらったんですけどね。楽しかったけど、肝が冷えました(笑)。

 で、「はっぴいえんど」は日本語ロックの創始者なんて言われていますけど、その前にもGS(グループサウンズ)の時代がありました。「ザ・スパイダース」なんかは、先ごろ亡くなったムッシュかまやつさんが有名な曲をだいたい書いてますけど、浜口庫之助さんの曲(「夕陽が泣いている」)なんかも歌っている。やっぱりロックというのは、若者が自分の力で若者のために作った音楽だと思うから、グループサウンズというのはまだまだ過渡期という印象です。「はっぴいえんど」の場合、分母は「バッファロー・スプリングフィールド」や「モビー・グレープ」みたいなフォークロックやサイケデリック・ロック。そこに松本さんの書いた日本語の歌詞が乗っている。リーダーだった細野晴臣さんが、特に日本語の歌詞にこだわったと言われてますね。一見、叙情的なんだけど、わざとアナクロな単語を使ったり、音節なんかもバラバラに崩してしまうとか、すごく実験的でもあります。

 それと比べて、「コーネリアス」のファーストアルバムに入っている「ラブ・パレード」って曲だと、もはや日本語の歌詞であることは特段取り上げる点でもなくて、まったく自然になっている。一方で、分母であるメロディやアレンジのコア(核)として、ロジャー・ニコルスの「Don’ t Take Your Time」や、トム・ジョーンズの「Promise Her Anything」を指摘できる。90年代になると、こうした楽曲も一部のマニアだけが知るものではなく、CDの再発やディスクガイドなんかを通して、ハッと気がつく人が多くなっていた。しかも、音楽だけじゃなくて、映画とか文学とか、さまざまな文化とも結びついていることにぼくたちは気が付き始めていたので、この「ラブ・パレード」という曲から、枝葉は様々な場所に伸ばすことが可能になったんです。

IMG_3169

IMG_3170

ミズモト 松本さんが「誠光社」のイベントに飛び入りしてくださったとき、こんな質問をしたんです。当時「はっぴいえんど」を聴いていた人は、「はっぴいえんど」と同時に「バッファロー・スプリングフィールド」なんかも聴いていたんですか? って。松本さんは「断言はできないけど」と前置きされたうえで、「2、3年くらいはブランクがあったんじゃないか」っておっしゃっていました。ただし「はっぴいえんど」が解散する頃には、ずいぶん追いついていたんじゃないか、って。たとえば「リトル・フィート」や「ヴァン・ダイク・パークス」を知った上で、「はっぴいえんど」のラストアルバムを手にした人たちはそれなりにいたはずだ、って。

三好・松尾 それは貴重な!

ミズモト 奇跡的な渋谷系との神との交信記録を残して、風のように去って行かれました(笑)。

松尾 その軽やかさ、風街的ですね(笑)

三好 当時は参照元を検証できる環境ってなかったんですかね。

松尾 1960、70年代なら、洋楽の情報蒐集の手段になっていたFEN(※7)が聞けたかどうかが地方によって大きいんじゃないですか。

ミズモト ぼくも岩国の基地で放送されてたFENはよく聴いてたけど、アーティスト名や曲名も聞き取れないことが多々あった。何年後かにたまたま買ったレコードを聞いて「ああ、あのときのラジオの曲だ!」って気づく事もありました。

三好 昔はネットで検索なんかなかったですもんね。

松尾 「ムッシュかまやつ」なんて、ビートルズのレコードを聴いて耳コピで歌ってたんでしょ。

ミズモト ブラジルに「ムタンチス」ってバンドがいますよね。60年代なかばにビートルズやストーンズから影響を受けて結成した、サイケデリックなブラジルのバンドです。彼らがバンド始めた頃は、まだまだブラジルにはエレキギターが無くて、自分たちで工夫して作ってたみたいなんですよ。で、デザインの参考にしようと、欧米のロックバンドのジャケ写とかを見ても、正面はともかく、ギターの裏側がどういう形かなんていっさいわかんないでしょ。だから見えてないところは妄想で作ってたらしい(笑)。

三好・松尾 いい話だ〜!

ミズモト 妄想力は大事。

松尾 細野さんだって、「はっぴいえんど」の時にベース弾かなきゃいけないって「Moby Grape」のジャケットを一生懸命見て指の構え方を覚えたんだって。僕も「インスタント・シトロン」を始めた時に、なんとなく「フリーソウル」みたいな音楽っていうイメージを持っていたんだけど、福岡ではなかなか音源も情報も手に入らない。お金もないから想像で作ってましたね。「フリーソウル」ってこんな感じに違いない、みたいな。

三好 足りないものは想像力と熱意でカバーするって事ですね! 結果それがオリジナリティになっていく。

ミズモト こんな図だってね、はっきり言えば、ぜんぶぼくの妄想なんですよ(笑)。整ってるように見えて、実は超イビツなわけです。ムタンチスのギターのようにね(笑)。でも、今はネットの力で妄想の余地が無い。ググればどんどん正解が飛び込んでくる。今の若い子たちはさ、だだっぴろくて平坦な世界にポンと放り込まれて、いきなり自分だけの地図を作れ……と強いられてるように見えます。めっちゃ大変だと思いますよ。ぼくら世代までは、とりあえず目の前にある山に登って、見通しを立てることができたんです。自分一人じゃ手に負えないと思ったら、ぼくが山の南側を開拓するから、お前は北側を開拓してくれよ、といった具合に友人同士でカバーしあった。

松尾 お金ないからシェアしてた。だから、趣味を同じくする友達とレコード店行っても喧嘩しなかったもの。

ミズモト ぼくが大学生の頃に「テレホーダイ」ってサービスが始まったんですよ。いくらか払えば、夜の11時から翌朝までいくら電話しても定額みたいなやつ。よくその時間帯に友だちと電話でレコードを聴かせ合いしてました(笑)。スピーカーに受話器を近づけて。

三好 かわいいな〜! 当時は情報が足りないって状況の中だったけれども、そのおかげで自ら探求する喜びがあったのかな。今はすぐに手に入りますもんね。

松尾 今は逆に何を聞いていいのか分からない。それはそれで掘っていく事が大事ですよね。

ミズモト まあ、さっきも言ったけど、今は今で大変だと思う。

170519_0173

三好 渋谷系の頃って、分子にあたる日本の歌詞自体も特徴があったんでしょうか?

ミズモト はっきりこうだとは言えないけど、なんていうか……俳句的な感じだよね。愛してるとか、悲しいとか、心情をはっきり描かない。景色みたいなものを淡々と語る、みたいな詩が多いと思う。でもさ、最近出た「コーネリアス」の新曲はすごくストレートなラブソングだったから驚いた。

三好 すごくエモいですよね。

ミズモト エモくて、エロい。作詞は坂本慎太郎さんが担当してるんだけど、お父さん(※8)の血を感じさせるよね。誤解を恐れずに言えば、コーネリアス流のムード歌謡。

三好 音数の少ないギターがものすごいエモーショナルだなと。

ミズモト ブルージーで、クラプトンみたいだった。

松尾 今、エモーショナルなギターはすごく面白いですよね。ギターソロが入っていると嬉しい。

ミズモト ギターソロって真っ先に否定されてたじゃない? 奇しくもオザケンの新曲(「流動体について」)にもギターソロが入ってたけど。

松尾 「インスタント・シトロン」も昔はチョーキング禁止でしたもん。「絶対エモくすんなよ」みたいな。そしたらこれでもかって感じの「Lenny Kravitz」が出てね。

ミズモト 「Lenny Kravitz」って福岡っぽい音ですよね(笑)。

松尾 そうなの! バキバキのサングラスでさ、ああいう人福岡にいそう。あと90年当時、福岡でもネオGS系のブームがあって、いろんなバンドが来たんですよ。その中の「ザ・ヘアー」を見て、これ普通にめんたいロックの人だと思いましたもん。彼ら的には、音楽のムーブメントが一周回っていて、1960年代の「ジミ・ヘンドリックス」なんかの王道ロックを今の時代にもう一回やるって感じなんですよ。だけど、僕はそこまで追い付いていなくて、まだ半周くらいしかしてないから「こんな先輩、福岡にもいるわ〜」って引いてた。

三好 その当時一番イタい先輩に見えたかもしれないっすね。

ミズモト 僕も東京の大学に進学して、都会の最先端の音楽を聴くぞ〜! と気張ってたのに、流行ってるのがネオGSだったので、ひっくりかえりましたよ(笑)。

三好 なるほど。ちなみに会場の方からの質問ですが、松尾さんは福岡だとどんなお店でレコード買っていたんですか?

松尾  僕が高校生の時にKBCの一階に「タワーレコードKBC(後に移転してトラックスとなる)」っていう輸入盤屋さんがあって、そこでレコード買っていましたね。「葡萄畑」や「フラットフェイス」っていうバンドを組んでいたすごくセンスのいいバイヤーさんがいて、いろんな情報を仕入れていました。その時は「フリッパーズギター」とか聞いていて、俺もちょっとかわいいことをやったらモテるかなと思ってました(笑)

ミズモト そういうことを考えてる時点で一生モテないですよね(笑)。

松尾 まあまあ。僕らにとって渋谷系は、福岡に連綿と続くマッチョなロックに対する一つのカウンターだったという事です。

ミズモト 「フリッパーズ・ギター」のプロデューサーだった牧村憲一さんの著書に書いてあったんですけど、彼が手掛ける可能性のあったバンドがふたつあったそうなんですよ。ひとつは「フリッパーズ・ギター」、もうひとつが「クレイジーケンバンド」。で、そのふたつのバンドのデモテープを聴きくらべて、「クレイジーケンバンド」は、自分が手がけなくても売れると思ったから、「フリッパーズ」を選んだんだって。さっきの渋谷系とはなんぞやとか、分母分子論を踏まえると、ものすごく興味深いエピソードでしょ。このふたつのバンドって、ほんと裏表の存在というか、よく考えたらすごく共通項がある。

松尾 どちらも東京サウンズって感じで面白いですよ。渋谷系なんて、「東京一は世界一」って感覚で作っていたんだなと感じます。

ミズモト 東京って常にボスが変わりますよね。昨日まで王様だった人がすぐに取って代わられる。まさにキング・フォー・ア・デイ。

三好 東京に比べると福岡は「ムラ」ですよね。

ミズモト 「系」じゃなくて「族」に近い世界。

松尾 そうだね。ロックの流れで言うと、福岡はリバプールって言うよりカンタベリーに近いかもしれない。同じような音楽性の人同士がどこかで繋がっている感じ。

三好 福岡みたいにある種の「族」というか、「トライブ性」が各地で勃興しているのかも。「Suchmos」とかもそうですもんね。ほぼ同じメンバーでHIPHOPのバンド(SANABAGUN)もやっているし。

松尾 渋谷系よりももっとガッチリしたつながりというか、組合みたいなものが結構盛り上がっているのかもしれないですよね。

ミズモト そんなか、松尾さんが始めたお座敷(「PARKS」)は最高ですよ。「系」からふたたび「族」に回帰してる(笑)。

松尾 あの場所が「族」って要素は分かる。でも僕は老害と言われたくないから、あまりしゃしゃり出てこないようにしている。

ミズモト おっかない先輩への反発もカウンターの力を生みますからね(笑)。

三好 抑圧があるところにね、新しい発想が生まれるんですよね。大きな力に押しつぶされない場所を目指した人たちに寄り添えるのが「渋谷系」だったという事かしら。でも結局やっている事の本質は、こんな風に連綿とつながっているって話ですよね。

(※7)米軍のラジオ放送

(※8)小山田さんのお父さんは、昭和ムード歌謡の人気グループ「和田弘とマヒナスターズ」の三原さと志さん

 

170519_0197

 ミズモトさんと松尾さんが見てきた90年代の渋谷系音楽シーン、もとい「シブヤ景」を多彩な知識と甘酸っぱいエピソードで追体験した今回。同年代の方は昔を振り返りながら、そして若い世代の方は少し羨ましく思いながら、耳を傾けていたようです。

 懐古主義にとらわれることなく、現代のミュージックシーンの三歩先まで軽々と飛び越えてしまうようなお二人の感性は、めくるめく刺激と多彩な個性を許したシブヤ景の中で育まれたものなのでしょう。それならば、渋谷系と似て非なる個性を持った福岡に暮らす私たちの前には、どんな「シブヤ景」が広がっているのでしょうか。

かつての渋谷系のように、様々な入り口からその答えを探してみるのも面白そうですよ。

 

ReTHINK FUKUOKA PROJECTについて
コミュニケーションや働き方、ライフスタイルに大きな変化をもたらしている福岡。新しい産業やコミュニティ、文化が生まれるイノベーティブでエネルギッシュな街となっています。
そのチカラの根底には、この街に魅力を感じて、自らが発信源となっている企業や人がいます。
ReTHINK FUKUOKA PROJECTは、「ReTHINK FUKUOKA」をテーマに、まったく異なるジャンルで活躍する企業や人々が集い、有機的につながることで新しいこと・ものを生み出すプロジェクトです。

 


POPULARITY 人気の記事

PAGE TOP