こんにちは。ライターのほりおです。先日、博多区の問屋街、須崎町にあるアートスペーステトラにてトークイベントが開催されました。
その名も「はたらかないで、たらふく食べたい」。
なんとも直球です……。
ゲストは、栗原康さん。今年4月、イベントのタイトルと同じ『はたらかないで、たらふく食べたい』という本を刊行したばかりの若手研究者です。研究者とはいっても、普段の仕事は週に2 コマの大学非常勤講師と、たまの文筆業のみで、年収は80万円程度。
「僕、親の年金で生活しています」と、堂々とおっしゃる姿がインパクト大です。
今回は、そんなドキッとするトークイベントのようすをレポートします。
みんなが思う「自由に生きたい!」は、実はアナキズムです。
栗原さんがいったい何の研究をされているかというと、「アナキズム」について、です。アナキズムとは、簡単に言うと、国家や権威的な存在は必要ではないという考え方のこと。支配する人がいないこと。つまりそれは言い替えると「個人が平等な立場で自由に協力する社会」。アナキズムとは、そんな社会の創造を目指す思想なのだとも。
(注:「アナキズムFAQ」より。
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/faqa1.html)
なるほど、規則や社会や道徳にしばられずに自由に生きたい!という、おそらく誰もが持っている欲求は、”アナキズム的”なのですね。
とは言っても、現実にそんなこと言うと「はぁ?」と思われそうですが……。
栗原さんは、この「はたらかないでたらふくたべたい」とか「やりたいことしかやりたくない」という自分に正直な気持ちこそ、“今”を生き抜くために必要なのだと言っています。どういうことなのでしょうか?
社会不適合者のほうが変化に強い!?
ダーウィンの「適者生存」をご存知でしょうか。生存競争において、ある環境に最も適した生物が生き残るという考えです。
栗原さんはこの「適者生存」に対し、スティーブン・J・グールドの「偶発的進化」という概念に着目して話を進めます。
グールドはアメリカの生物学者。
生命の進化は「偶発性」、つまり思いもよらない出来事の積み重ねによるものだとして、この「偶発的なこと」があるからこそ、世の中は素晴らしい! と主張した学者さんだそうです。相対的な強さも、能力の優劣も、環境の変化を乗り越えられるかどうかとは関係ないのですね。
たしかに……あれだけ繁栄をきわめていた恐竜も、隕石とか気候変動うんぬんとか色々と説はあるものの、結果的に生き残れませんでしたし……。
ここで栗原さんが見せてくれたのは、一冊のノート。
そこには、ちょっとヘンテコな生き物の絵が描かれていました。
アノマロカリスは、カンブリア紀で最強の捕食者だったにもかかわらず、大爆発が起こった際に生き残ることができずにそのまま絶滅してしまったそうです……。
下に小さく書かれているのは脊椎動物のピカイア。同時期に細々と生きていたピカイアは、貧弱な生き物だったにもかかわらず生き残り、私たち人類への道を閉ざすことなく生き延びてくれました。
「このピカイアこそアナキストなんです」と栗原さん。
うまく環境になじめず、わが道を歩み続けた結果、危機的な状況を乗り越えることができたのですから。
人間が繁栄をきわめつつある現代は、どう見ても危機的な状況です。資本主義、戦争、原発、地震……。時代や社会環境に適応できなくとも、そしてダサイとかアウトローとか色々言われようとも、わが道をマイペースに歩み続けるピカイアみたいな人のほうが、実はこの世の中を乗り越えられるかもしれません!
子どものように自由に生きた男、大杉栄
栗原さんの話のなかで頻繁に登場したのが、大杉栄という人物。明治大正時代に生きたアナキストの代表格です。
大杉は、自分のやりたいことしかやらなかったそうです。お金のためにやりたくない仕事をするなんてまっぴら。それだったら金なんかいらない。やりたいことだけやっていたい。いつだってありのまま。好きなことを好きなように表現したい。
プライベートも炸裂してます。あの時代に小学校から不登校。結婚するも入籍はせず、二人の愛人からは経済的援助を受けるという、いわゆる“ヒモ”。愛人の一人、伊藤野枝とのあいだには5人の子どもをもうけました。
栗原さんは、子どものように自由に生きる、この大杉栄が大好きだそうです。
大杉のように自由に生きられたら……と妄想する一方で、一見すると“身勝手”とか“わがまま”ととらえられそうなアナキストたちばかりになってしまったら、世の中はいったいどうなるの……。
大丈夫、心配いりません。栗原さんいわく、人間は本来“無償の愛”を持っています。困っている人を見かけたらついつい手を差し伸べてしまう。友だちが家に遊びに来たら、お酒を出してごはんを作ってみんなで語らう。そこには、恩着せがましさや見返りを求める心はありません。
親の目、友だちの目、社会の目ばかりを気にしなくても、自分の思うように自由に生きても、この「相互扶助」の気持ちがある限り、人間は幸せでいられるのです。う〜ん、素晴らしい。
「働かざる食うべからず」の社会よ、さようなら。
「働かざる食うべからず」が当たり前の(になってしまっている)この社会で、「はたらかないで、たらふく食べたい」と声に出すのは、たしかに勇気のいること。
なぜなら今の世の中、「かせぐ人=えらい人」「かせげない人=人間じゃない」という図式がいつのまにか存在していて、この図式が、良い人なのか悪い人なのか、というひとつの基準になっているからです。
栗原さんは、「かせぐことしかやってはいけない」という“しばり”を背負わされているのが、今の社会だとおっしゃいます。本のサブタイトルである「生の負債からの解放宣言」というのは、この“しばり”から解放されることなのですね。ふむふむ。
栗原さんの話を聞いていると、「世間的にえらい」とか「社会人としてきちんとしている」という概念を取っ払って、思いっきり自分のために、自分が好きなこと/人のために、何かをしてみたくなってきます。だって、人生、自分のもの。どんな風に生きても、誰のために生きても、結局は自分が幸せだと思えるかどうかだと思うのです。
最後に、栗原さんが吟じた歌を一句。
「身を捨つる 捨つる心を捨てつれば 思ひなき世に 墨染めの袖」
モノが欲しいという所有欲。認めて欲しいという承認欲求。こうしてあげたのにという見返りの心。そうしたすべての欲を捨て、「捨てる」という心さえも捨てる。何も捨てるモノがなくなってはじめて、ようやく自分の思いが見えてくる。
歌の作者は、時宗の開祖・一遍上人。一遍上人は、「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれていたほど“捨てること”の極意を求めて全国を旅して歩いたといいます。何も欲しないので、開宗も望まない。その意味では元祖アナキストですね。
もし、この世の中がきゅうくつだと感じている人がいたら、是非栗原さんの本『はたらかないで、たらふく食べたい』を手にとってみてください。現代社会を痛快に批判しつつも、とっても読みやすく、涙(?)あり、笑いありで、読み終えたあとに、すがすがしい気持ちになれること間違いなしです!
(写真・文/堀尾真理)